どうやらこの稲野小学校の南側校門辺りが、昆陽宿の中心的な場所らしい。昆陽が西国街道の宿駅所に指定されたのは、寛永期(1624~43)頃と考えられている。

宿内に高札場は一カ所、問屋場は一軒で人足25人に馬25疋(発足当初は人馬ともその半分)を抱えていた。
旅籠は七軒というから、宿場としては余り大きな規模ではなかったようだ。

昆陽村には、東から東町・中町・辻町・大工町・市場町・佐藤町・小井ノ内という7つの町があり、宿内の家数は174軒、人口913人(男424人、女489人)であった。
当時宿場は女達の働き場所でもあり、この時代では多くの宿場で、女性人口が男性よりも多かったようだ。

本陣は1軒有り、江戸時代初期には佐藤家が、幕末に川端家・松村家が務めたらしいが、史料がほとんど残存しないため、詳しいことは分かっていないという。
現在の昆陽5丁目辺りに有ったらしいが、その所在も比定出来ず、その為か本陣跡を示す案内も見当たらなかった。

古くは、元弘の乱により捕らえられた後醍醐天皇が、隠岐に配流になる途中、昆陽近くに一泊され、「命あれば 昆陽の軒端の月も見つ またいかならん 行末の空」と詠んだ記録が残されているという。
また全国を測量して歩いた伊能忠敬は、その途中川端本陣に泊まった記録も有るという。

宿場の西外れには、地蔵を祀る小さな祠がある。
庚申は中国の道教に由来する信仰で、災いや疫病を防ぐと考えられていた。
旅人の安全を守る道祖神(どうそじん)等と同一視されていたらしい。

江戸時代には村境等に置かれる事が多く、昆陽村にはこのほか、東の庚申(市立稲野小学校東側の地蔵堂内)と北の庚申(東天神社本殿の背後)に残されている。(続)
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